「ソフトウェアエンジニア」という肩書きが消えていく——MTSが示す職種の地殻変動
WorkdayのCTO(最高技術責任者)を務めていたピーター・ベイリス氏が、2026年3月にAnthropicへ移った。新しい肩書きは「Member of Technical Staff」、略してMTS。日本語にすれば「技術スタッフの一員」だ。
CTOが「技術スタッフの一員」に降格した——そう読みたくなるが、実態はそうではない。AnthropicやOpenAIでは、研究者もエンジニアも、元CTOも、全員が共通して「MTS」を名乗る。OpenAIでGPUプログラミング言語Tritonを作ったフィリップ・ティレ氏も、LinkedInには「Member of Technical Staff」と記してある。
これは何を意味するのか。肩書きが変わったのではなく、「肩書きが専門性を証明する」という前提そのものが変わり始めているのだ。
3つの「MTS」——同じ名前でも意味が違う
「MTS」という言葉自体は新しくない。AT&Tのベル研究所では少なくとも1920年代後半から使われており、情報理論の父クロード・シャノンもMTSだった。当時は階層が明確で、少なくとも1960年代にはTechnical Aidを最下位、MTSを最上位とする4段階の職階が存在した。専門は横断しつつ、序列はきちんとあった。
現在も、OracleやSalesforce、マイクロン・テクノロジーなど多くの企業がMTS系の肩書きを使っている。マイクロン・テクノロジーの求人には「MTS ― HIG HBMコンポーネント検証担当」のように担当領域が明示され、ニールセンの求人には「主任技術スタッフ(MTS 4)― 機械学習担当」とレベルまで入る。見れば何者かがわかる、いわゆる従来型の使い方だ。
これに対して、AnthropicやOpenAIの「AIラボ型」は全く違う。社員の公式プロフィールには単に「MTS」とだけ記されることが多く、肩書きを見ただけでは担当も階層も読み取れない。組織内には職種やレベルの違いが存在するのに、それが外部には見えない形になっている。
面白いのは、「社内向けはMTS、求人票は別」という二重構造があることだ。OpenAIの求人ページには「Title note」という注記があり、研究職とエンジニアリング職の採用者は内部タイトルとしてMTSを共有するが、外部に向けてはSenior StaffといったレベルやSoftware Engineerといった従来の職種名を使うと明記している。Anthropicの公開求人にも「Staff Software Engineer, Claude Code」「Research Engineer, Interpretability」といった具体的な職種名が並んでいる。内側ではMTS、外側では従来型——その使い分けは意図的だ。
なぜAI企業は職種の境界を溶かすのか
OpenAIがMTSを採用した経緯について、共同創業者グレッグ・ブロックマン氏は2023年2月のXポストで明かしている。OpenAIを立ち上げるとき、人を研究者とエンジニアに分けたくなかった。アラン・ケイ氏からゼロックスPARCでの「Member of Technical Staff」の用例を助言されて採用した、というものだ。
この考え方が現在のAI開発と相性がいいのは、Anthropicの採用ページに端的に書いてある。「エンジニアは多くの研究をし、研究者は多くのエンジニアリングをする」。大規模モデルの開発では、データ整備も分散学習も推論最適化も絡み合い、どこまでが研究でどこからが実装かの線が引けなくなっている。
加えて、防衛的な意味もある。simplify.jobsの分析によれば、「Senior Staff Research Engineer, Pretraining」という肩書きはレベルも担当も競合他社に即座に伝えてしまうが、「Member of Technical Staff」はほぼ何も伝えない。激しい人材引き抜き合戦の中では、情報を開示しないこと自体が防御になる。
political.orgはこの過程をやや辛辣に指摘している。MTSは「慎重に授与される研究上の称号から、広範な採用ツールへ変質した」のだと。賛否はあるだろうが、同じ名前でも文脈が変われば意味が変わるという事実は押さえておきたい。
逆向きに見えて、実は同じ現象——FDEの急増
職種の境界が溶ける動きには、もう一つの形がある。FDE(Forward Deployed Engineer、前方展開エンジニア)だ。
FDEの求人は2025年1月から9月だけで800%以上増加した(Financial TimesがIndeedの分析として報道)。LinkedInの調査では、Z世代が採用の3分の2以上を占める個人貢献者の職種が2つあり、FDEとAI Engineerがそれにあたる。年収中央値はFDEで19万9000ドル(160円換算で約3184万円)、AI Engineerで16万6000ドル(同約2656万円)。
FDEの起源は2003年設立のPalantir Technologiesだ。軍事用語の「前方展開部隊」から名付けられた職種で、本社の開発部門ではなく顧客の現場に入り込み、成果が出るまでを担う。「仕様通りに動けば成功」ではなく、「顧客に成果が出なければ失敗」という定義が通常のエンジニアとの根本的な違いだ。ソフトウェアが動いても誰も使わなければ、FDEとしては失敗したことになる。
MTSとFDEは一見、逆の方向を向いている。MTSは専門の壁を横に取り除き、FDEは責任の範囲を前方へ伸ばす。でも共通しているのは、「従来の職種区分では仕事の実態を表し切れなくなった」という同じ事実への、方向の異なる対応だということだ。肩書きの変化は、仕事の中身が先に変わったことへの追従にすぎない。
ここからは見方——肩書きを手放せるのは、手放しても困らない人だけ
「技術スタッフの一員」という肩書きを最初に見て「ださいな」と思う感覚は正直なところあると思う。「データサイエンティスト」や「機械学習エンジニア」の方が格好いい。その直感はある意味で正確で、肩書きの格好よさは希少性の証明から来ている。なれない人がいるから格好いい。誰でもなれそうだからださく見える。
ただ、問題はその希少性が実際に溶け始めているという点だ。AIを使うことで一人が扱える範囲が広がり、研究と実装の境界は薄くなり、開発者でない人がソフトウェアで成果を出す例も増えている。その流れの中で、MTS という肩書きの「ださ」さは、実は時代の変化を正確に反映している。
では、肩書きが専門性を証明しなくなった後、何が価値を証明するのか。実際に今起きているのは、「AnthropicのMTS」「OpenAIのMTS」のように会社名がその役割を引き受けることだ。しかしこれには根本的な問題がある。Anthropicという社名がなければ「MTS」は何も伝えない。そしてその答えは、有名AIラボに入れる一部の人間にしか適用されない。
しかも、階層が消えたわけではない。Anthropicの公式資料では、L4を「フルタイム採用で最も低いレベルのMTS」と説明している。MTSは階層をなくした肩書きではなく、階層や担当を外側から読み取れなくしただけだ。肩書きを手放せるのは、手放しても困らない人——つまり、所属する会社名が十分に雄弁な人——だけである。
また、現実的なキャリアへの影響もある。Hacker Newsには、MTS導入を検討したあるスタートアップ創業者の投稿がある。社員が転職するときにキャリアの流動性が損なわれること、採用担当者が「senior」「staff」「principal」といった語でキーワード検索するため応募段階で不利になることを懸念して見送った、という内容だ。会社を離れたとき、「MTS」という記載だけでは次の採用市場で伝わらない。
日本で働くエンジニアへの実務的な示唆
MTSという肩書き自体が日本に広まるかどうかは正直わからない。年功序列やメンバーシップ型雇用とは根本的に相性が悪い。筆者が把握している範囲では、日本での採用例は東京のSakana AIだけで、同社の求人ページにも「日本語能力はMTSの必須要件ではないが、日本在住であることは求められる」とあり、外国人創業・英語運用というカルチャーあっての移植だということがわかる。
ただ、肩書きの名前が輸入されるかどうかとは別に、「研究と実装の境界を越えて働く」「成果が出るまで責任を持つ」という実態の変化は、既に求人として表れている。名前が変わらなくても、仕事の中身は変わり始めている。
そのとき自分の価値をどう示すか、という問いに対して、一つの整理を提示しておきたい。
- 段階0:与えられた仕様に沿って作る(AIによる支援・自動化が進みやすい領域)
- 段階1:現場を見て、何を作るべきかを決める
- 段階2:作ったものが使われ、成果が出るところまで面倒を見る
- 段階3:現場で得た知見を、製品や組織の設計へ還流させる
段階2以上の経験があれば、肩書きとは別に「自分が何を成したか」を説明できる。逆に段階0だけでは、肩書きが立派でも差を示すことは難しくなっていく。
もっとも「どこまでの範囲を任されるか」は本人の意志だけで決まるものではない。受託開発など、構造上そもそも引き受ける余地がない現場も多い。だが、「自分が今、何段階目の仕事をしているのか」を一度問い直すことには、会社の外でも通じる言語を持つための手がかりがある。
次に同種のニュースを見るときの判断軸
「肩書きが変わった」という種類のニュースを見るとき、見るべきポイントは一つだ。**「仕事の中身が変わった結果として肩書きが変わっているのか、肩書きだけが変わっているのか」**を問うこと。
今回のMTSは前者だ。研究と実装が融合し、AIコーディングツールで一人が担える範囲が広がった結果として、職種区分が実態に合わなくなった。後から肩書きがそれを追いかけている。
一方で、「キャリアの流動性を損なう」「採用検索で引っかからない」というトレードオフは実在する。フロンティアAIラボが「内側はMTS、外側は従来型の職種名」という二重構造を取っているのは、労働市場がまだMTSに対応していないことを彼ら自身が知っているからだ。
会社名に価値の証明を預けることは、誰にでも選べる答えではない。「何を名乗るか」より「何を成したか」を語れるか——この問いは、肩書きの名前が変わろうと変わるまいと、今後ずっと有効であり続ける。
参考元: なぜAI企業は社内で「ソフトウェアエンジニア」と呼ばなくなったのか 広がる「MTS」と職種の未来:Deep Insider Brief ― 技術の"今"にひと言コメント