資生堂がAIで原料探索を95%削減——「研究員の目利き」を複数LLMで再現した中身
数字を先に押さえる:95%削減、20〜50%増加の意味
探索時間が95%削減された。しかも、提案される原料の数は従来より20〜50%増えた。
この2つの数字が同時に成立しているのが、このニュースを読み流すべきでない理由だ。普通の自動化なら「速くなったが量は変わらない」か「量は増えたが精度が落ちた」という話になりがちだ。速くなって、質も量も向上したという結果は、単なる処理の高速化ではなく、探索プロセスそのものの設計が変わったことを示している。
資生堂ジャパンが2026年7月に開催された「Google Cloud Next Tokyo 26」で報告したこの成果は、AIエージェントを「情報検索ツール」としてではなく「業務判断を再現するシステム」として設計したことで生まれたものだ。
なぜ資生堂がこのタイミングでAIXを全社展開したのか
資生堂ジャパンが2026年3月に全社でのAIX(AIトランスフォーメーション)を本格始動させた背景には、3つの構造的な課題がある。人口減少に伴う国内市場の停滞、激化する競争環境、そして従業員の年齢構造が定年退職の山に差し掛かっているという問題だ。
創業150年以上、連結売上高9700億円(2025年12月期)という企業規模で、これだけ明確な危機感を外に向けて語るのは珍しい。3番目の「定年退職の山」というのが特に重い。ベテラン研究員が持つ「目利き」の知識が、退職とともに失われていくという問題は、製造業や研究開発型企業が普遍的に抱える構造課題だ。
今回のエージェント開発は、この課題に対する一つの直接的な回答として読むことができる。
エキス原料探索エージェントの技術的な中身
研究員が新しいテーマで原料を探索するとき、作業の流れはこうだ。まず膨大なデータベースから候補を絞り込み、次にその中からどれが有望かを見極める。この「見極め」には、個人の経験とノウハウが色濃く反映される。だから時間がかかり、担当者によって結果がばらつく。
資生堂ジャパンのデータサイエンティストである徐思捷氏は、この課題に3つの技術を組み合わせて対応した。
HyDE(Hypothetical Document Embeddings):質問から仮の回答文を生成し、それを手掛かりに検索する手法。「美白効果が期待できる植物由来の成分を探したい」といった曖昧な依頼であっても、業務文脈を踏まえた検索が可能になる。
Hybrid RAG:キーワード検索とベクトル検索を組み合わせる手法。専門用語や成分名など、化粧品研究特有の語彙に対する検索精度を高める。
複数LLMによるレビュー:一つのLLMだけでなく、複数のモデルで候補の妥当性を多面的に評価する。研究員が複数の視点から原料の可能性を検討するプロセスを、モデルの多様性で近似している。
徐氏はこう語っている。「研究員の考え方や判断プロセスをエージェントに反映している」。これは謙虚な表現に見えて、実は相当に野心的な設計コンセプトだ。
なお、資生堂ジャパンはエージェントの実装方式を「スクラッチでの実装」と「プラットフォーム活用による実装」の2種類に使い分けている。エキス原料探索エージェントは前者、EC領域の顧客対応エージェント「Commerce Insight Agent」は後者だ。業務ロジックが複雑で判断の再現が必要なものはスクラッチで、改善サイクルを速く回す必要があるものはプラットフォームで——という割り切りは実務的で明快だ。
「サンドイッチ型体制」という組織設計の論点
技術的な話と同じくらい興味深いのが、組織の動かし方だ。
資生堂ジャパンは約40部門から130人のアンバサダーを指名し、経営層と現場の両方から推進力を生み出す「サンドイッチ型体制」を構築した。DX&AIX戦略部のグループマネジャーである菊地光氏は「トランスフォーメーションには、現場の心を動かす共感とコミットメントが要る」と述べている。
実際の数字を見ると、Geminiの月間アクティブ率は82%を超え、3日に1回以上の高頻度で実務利用している従業員の比率は42%に達しているという。4月から始まったハンズオンは100回以上開催されており、定着の深さがわかる。
この体制が機能した理由の一つは、AIXを「デジタル部門の単一プロジェクト」ではなく「経営マター」と定義し直したことにある。かつては資生堂インタラクティブビューティーという外部のデジタル子会社が変革を主導していたが、現在はCSO(最高戦略責任者)領域に移管し、組織の内側から横断的に動いている。
「外から動かす」から「中から動かす」への転換は、大企業のDXが壁にぶつかるときの典型的な解決策として語られてきたが、実際にそれをやり切った事例として参照する価値がある。
ここからは見方だが——業務AIの「次のフェーズ」を示す事例
今回の資生堂の取り組みが示しているのは、企業向けAI活用が質的に変わりつつあるということだ。
第一フェーズは「情報検索の効率化」だった。社内文書をベクトル化してRAGで検索できるようにする、というやつだ。資生堂ジャパンもGemini Enterpriseを使った社内資料探索エージェントで探索時間を約67%削減したと報告しており、これはステップ2の成果として位置づけられている。
ただし、徐氏が指摘する通り、「単純な情報検索や文章生成だけでは、現場の複雑な業務や判断に対応しきれない」場面がある。エキス原料探索のような高度な専門判断が求められる業務がその代表例だ。
今回のエージェントが踏み込んでいるのは、「業務判断を再現する」という第二フェーズだ。検索して返すのではなく、研究員がどのように考え、何を重視して、どの候補を選ぶかというプロセスをシステムに組み込む。このアプローチの難しさは、そのプロセスを最初に言語化・構造化しなければならない点にある。属人化していた知識を、エージェントの設計仕様として書き下す作業は、技術的な問題というより、知識工学の問題だ。
もう一点、「誰が作るか」でエージェントを作り分けるという思想も興味深い。記事の中でこの点は詳しく説明されていないが、業務知識を持つ研究員と、技術実装を担うデータサイエンティストが協働してエージェントを設計するというアプローチは、汎用ツールに頼るだけでは届かない精度を生む。
実務的な示唆と今後の論点
設計の軸として使えるフレームワーク
徐氏が語る業務特化型エージェントの3つの軸——「業務知識の理解」「業務判断の再現」「業務改善の継続」——は、自社でエージェントを設計するときのチェックリストとして使える。多くの企業が最初の「業務知識の理解」で止まり、「業務判断の再現」まで踏み込めていない。それは技術の問題というより、業務側が判断プロセスを言語化できていないことが多い。
運用・セキュリティコストを見落とさない
資生堂ジャパンはModel ArmorとIAMでセキュアな運用環境を整備し、Private Service ConnectとAlloyDBでデータ連携基盤を構築している。エージェントの実装コストだけでなく、こうした運用インフラのコストは必ず積み上がる。PoC段階では見えにくく、本番展開後に顕在化する問題だ。
今後に問題になること
「業務判断を再現」するためにベテラン研究員の知識を構造化しても、業界の知識は更新される。新しい原料、新しい規制、新しい研究知見が出てきたとき、エージェントの判断基準をどう継続的にメンテナンスするか。徐氏が「業務改善の継続」を三つ目の軸に置いているのはこの問題への意識だと読めるが、その仕組みが実際にどう機能するかは、これから問われる点だ。
もう一つは、知識を提供したベテランが退職した後、誰がそのエージェントの「判断の妥当性」を評価するのかという問題だ。エキス原料探索エージェントで言えば、95%の時間削減と20〜50%の原料数増加は成果として測定できる。だが、「増えた原料の質」を誰が評価し続けるか。これは技術的な問いではなく、組織的な問いだ。
まとめ
資生堂ジャパンの事例が示しているのは、企業向けAIが「情報へのアクセスを速くするツール」から「業務判断を再現するシステム」へと変わりつつあるフェーズの、比較的リアルな先行事例だ。
95%の時間削減というインパクトある数字だけを見ると「大企業のAI活用成功事例」という記事に見える。だが中身を読むと、HyDE・Hybrid RAG・複数LLMレビューという技術の組み合わせ、スクラッチとプラットフォームの使い分け、130人のアンバサダーによる組織体制、そして「業務判断の再現」という設計哲学が積み重なって出てきた数字だとわかる。
同種のニュースを次に見るとき、確認したい軸は一つだ。「情報を速く引き出しているのか、それとも業務判断を再現しているのか」。この違いがエージェントの実質的な価値を分ける。
参考元: 資生堂、AIエージェントで原料探索を95%削減 研究員の「目利き」を複数LLMで再現:Google Cloud Next Tokyo 26(ITmedia エンタープライズ)