戦時下でも100万ユーザー——ウクライナ発GovTech「Mriia」のスタートアップ思考

ウクライナで面白いプロジェクトが育っている。国家が支援する教育プラットフォーム「Mriia」だ。ポイントは「国がやっている」という点ではなく、「スタートアップの人間が設計・運営している」という点にある。

GovTechの多くは、調達の論理と縦割り組織の中で生まれ、現場との距離を縮めないまま死んでいく。Mriiaはその逆をやろうとしている。失敗するかもしれないし、まだ途中だ。それでも、2026年時点で3,700校・100万ユーザーを抱える実績は、単なる実験以上のものを示し始めている。

Mriiaとは何か——GovTechにスタートアップ思考を持ち込んだ実験

Mriiaはウクライナの国家支援を受けたデジタル教育プラットフォームで、学校管理・教師・生徒・保護者を一つのエコシステムに統合することを目指している。電子ジャーナル、時間割、出欠確認、成績、宿題、行政プロセスを一元化し、教師の反復作業を減らすことが当面のコアバリューだ。

資金面では、スイスが資金を提供するEGAPプログラム、UNICEF、Googleが国際パートナーとして名を連ねる。開発チームのバックグラウンドは興味深い。プロダクトリードのAnastasiia Kochubynska氏はバンキングのファイナンシャルアナリストからコロナ禍にプロダクトマネジメントへ転身し、フィンテック・ヘルス・フィットネス領域を経てMriiaに参画。AIストリームを率いるViacheslav Miekh氏は15百万ユーザーを獲得したソーシャルアプリ「Obimy」の共同創業者だ。ロシアの全面侵攻後に方向転換し、Mriiaに合流している。

なぜ今このプロジェクトが注目されるのか

商用のデジタル化サービスがすでに存在するウクライナの教育市場に、Mriiaが切り込んだ最大の武器は「学校と家庭にとって完全無料」という点だ。

機能で戦うのではなく、コストゼロで参入障壁を下げる。これはスタートアップ的な思考ではあるが、商用サービスならサスティナビリティの観点から慎重になるはずの判断だ。国家バックがあるからこそ取れる戦略であり、逆に言えば「国家のリソースをどう使うか」という設計上の意志決定が、プロダクトの性格を決定づけている。

パイロットは40校からスタートし、現在3,700校超・100万ユーザーに拡大。2026年末には7,000校・150万アクティブユーザーを目標に掲げている。スマートフォンを最初のエントリーポイントに選んだのも意図的だ。「親や子どもがスマートフォンを持っていれば、パソコンがなくても教育情報にアクセスできる」というKochubynska氏の言葉は、デジタルインフラの現実を踏まえた設計思想を表している。

「仮定より観察」——現場データが設計を変えた話

ここが実務的に一番読み応えのある部分だ。

チームはもともと、教師が電子ジャーナルを開き、まず欠席を記録し、それから成績を入力するという流れを想定していた。ところが実際の利用データを見ると、多くの教師が成績入力に直接飛んでいた。これを受けてチームは不要なステップを削減し、実際の行動に沿ってワークフローを再設計した。

「ユーザーが言うことと、ユーザーが実際にやることは違う」——これはUXの世界では有名な命題だが、公的サービスの開発現場でここまで素直に実装に反映されるケースは少ない。要件定義を仕様書に固めてウォーターフォールで進める従来型の行政ITプロジェクトではなく、行動データを見ながらイテレーションを回すスタートアップ流の設計プロセスがここで効いている。

もう一つ印象的な事例がある。電力不足によるシャットダウンが発生した際、Webユーザーの約30%がモバイルアプリへ切り替えて作業を継続したというデータだ。これはユーザーが自分でレジリエンスを作り出していることを示しているが、同時にMriiaにオフラインモードがまだ存在しないという限界も浮き彫りにする。モバイル接続が維持できる間は乗り切れるが、接続そのものが失われたら手詰まりだ。

GovTechの構造論:なぜ政府プロジェクトはプロダクト思考に失敗するのか

ここからは見方の話になる。

Mriiaが興味深いのは、技術的に特別に先進的だからではない。AIによるテスト生成にGoogleのGeminiを使い、教科書・文部省資料・国家試験ガイドラインを構造化してコンテキストとして供給するアーキテクチャは、現在の標準的なRAGアプローチの範疇にある。GoogleのGemmaやウクライナ産LLM「Mamai」のベンチマーク比較も実施中とのことで、技術的な試行錯誤は続いている。ただ、これらは現時点で「使えるAI」であり、「突出したAI」ではない。

Mriiaのユニークさは、構造的な部分にある。

政府が教育プロダクトを作るとき、たいていは「何を作るか」の議論から始まり、現場の教師は要件定義の末端に置かれる。Mriiaはチームメンバーが教師から深夜に電話を受ける体制を取っている。Kochubynska氏は「彼らは私の番号を知っていて、真夜中でも電話してきた」と語っている。これが笑い話として語られているのは重要で、これをシステムとして許容する組織文化が、「数日、時には数分で問題を特定して意思決定者に伝える」というフィードバックループを作っている。

従来の行政ITでは、現場の声が政策立案者に届くまでに何ヶ月もかかる。Mriiaはその構造を短絡させることで、教育政策のエビデンスベースを変えようとしている。行動分析は非個人化されたデータで行われるとしているが、この「政策立案者がリアルタイムで現場データを見られる」という状態が長期的に何をもたらすかは、まだ議論が必要な領域だ。

実務的な示唆:日本のGovTech・EdTech開発者は何を考えるべきか

日本のGovTechやEdTech開発者にとって、Mriiaから取り出せる論点はいくつかある。

「無料で出す」という戦略判断の重さ。Mriiaが無料であることは、単なる補助金の話ではない。「無料で出すことで市場の空気を変える」という意志的な判断だ。商用サービスが並立する市場で国家が無料プロダクトを投入するとき、商用事業者との関係をどう設計するかは常に問われる。日本の教育DXでも同種の緊張は存在し、これを回避したまま進めることは難しい。

オフラインモードは「いつか対応するもの」ではない。電力・通信インフラが不安定な環境でのオフライン対応は、戦時下ウクライナに限った課題ではない。災害時の日本でも、農村部の新興国でも同じ問題は起きる。「30%がモバイルに移行した」という数字は成功のように見えるが、裏を返せば70%が使えなくなった可能性を示唆している。オフライン対応を後回しにする判断のコストを、ユーザー行動データで定量化して議論する習慣が必要だ。

政策フィードバックループの設計は最初から考えるべき。Mriiaが「教師の実際の行動データが政策立案者に届く」という構造を持っているのは、設計の意志の結果だ。日本のGovTechプロジェクトが「とりあえず動くものを作る」段階で終わりがちな理由の一つは、誰がデータを見て何を決めるかの設計が後付けになっているからではないか。

まとめ——実験はまだ途中

Mriiaは2026年末に向けて7,000校・150万アクティブユーザーという目標を掲げているが、現時点では3,700校・100万ユーザーだ。目標の半分をようやく超えたところで、ここから先のスケールは別の難しさを持つ。

戦時下でインフラが不安定な中、オフラインモードなしで国民規模の教育プラットフォームを運営し続けることの限界は、チーム自身も認識している。AIによるテスト生成も、Geminiへの依存、ウクライナ産モデルの品質、教科書コンテンツの権利処理など、解決済みでない論点が積み重なっている。

それでも、「スタートアップの人間が国家プロジェクトに入り、現場データを見ながらプロダクトを回す」という構造が機能していることは、数字が示している。GovTechが死にやすい理由は技術ではなく、設計思想と組織の問題であることを、Mriiaは逆説的に証明しつつある。

次にGovTech関連のニュースを見るとき、「誰が現場のフィードバックを受けているか」「意思決定者にデータが届くまでの時間はどれくらいか」を確認してみるといい。技術スタックよりも、そちらのほうがプロジェクトの生死に直結している。


参考元: Inside Mriia: Ukraine's million-user experiment in startup-driven GovTech(tech.eu)