廃業スタートアップのSlackとコードがAI訓練データに売られている——「無法地帯」の現状と実務への影響
廃業する会社のSlackの会話ログ、社内メール、コードベースが、AIの訓練データとして取引されている。それも数百万円単位で。
この市場が急拡大している背景には、「公開データが枯渇しつつある」という、AI開発の構造的な問題がある。注目すべきはビジネスモデルの奇妙さだけではない。法的・倫理的な整備がまったく追いついていないまま、市場だけが先行している点だ。
廃業スタートアップのデータが「資産」になる時代
暗号資産スタートアップを畳んだキーラン・ミスケルは、会社のデジタルアーカイブを売ることになった。コードベースで約2万5000ドル。Google、Notion、Figma、Slackのワークスペースデータは確定していないが約1万5000ドルが見込まれる——これはMIT Technology Reviewが報じた実際の話だ。
「2年半かけてやってきたことすべてが、どこかの誰かにとって価値があるとわかっただけでも良かったです」というミスケルのコメントは、どこか複雑な感情をにじませている。
この取引を仲介したのは、シンプルクロージャー(SimpleClosure)という企業だ。同社は2026年4月にデータ販売サービス「Asset Hub(アセットハブ)」を加え、消えゆくスタートアップのコード・メール・チャット・文書といったワークスペースデータを買い手に橋渡しする。買い手には基盤モデルを手がけるAI研究機関、AI訓練用の模擬ワークスペースを構築するベンダー、自社モデルを開発する成熟したテック企業などが含まれる。
同社CEOのドリ・ヨナによれば、Asset Hubはすでに150件を超える取引を手がけており、2026年末までにスタートアップ側に1000万ドル超を還元する見込みだという。現在、シンプルクロージャーの取引の47%がコードやデータの販売を含んでいる。
数字で見る:なぜ「今」これが起きているのか
スタートアップの廃業件数が増えている。Carta(カルタ)やAngelList(エンジェルリスト)の推計では、ここ数年でスタートアップの閉鎖件数は年26〜56%の割合で増加しているという。
この数字は二重の意味を持つ。廃業が増えれば供給されるデータも増える。同時に、AI開発側の「データ不足」という課題は深刻化している。インターネット上の公開テキストはすでに大半が主要モデルの訓練に使われており、新たな質の高いデータソースを探すことが業界全体の課題になっている。
その文脈で見ると、Googleが破産手続き中のスピリット航空のデータを1000万ドルで購入した事例は象徴的だ。航空会社の内部データ——業務メール、顧客対応記録、内部文書——はモデルの業務理解を高めるには質の高い素材になりうる。しかし、それは同時に、元従業員や元顧客の個人的なやりとりが含まれている可能性を意味する。
AIおじさんの見方:「データ錬金術」ではなく「制度の空白」の話だ
ここからは少し踏み込んだ見方になる。
この市場を「廃業スタートアップが意外なところで稼ぐ話」として消費してしまうと、本質を見落とす。これは本質的には「データに関する権利の帰属が、まだ誰にも定義されていない」という問題だ。
弁護士が「AI訓練の無法地帯」と警鐘を鳴らすのはそのためだ。廃業時にデータを売る権限は通常、創業者や清算人にある。しかし、そのデータを実際に生み出したのは誰か。元従業員たちだ。Slackのメッセージを書いたのは彼らで、コードをコミットしたのも彼らだ。それが売られるとき、彼らへの利益配分はない。同意を求められることもない。
ユーザーのデータも同様だ。スタートアップのプライバシーポリシーは通常、廃業後にデータが第三者のAI訓練に使われることを想定していない。形式的に「同意」していたとしても、そのスコープを外れている可能性が高い。
もう一つの構造的な問題は、買い手側の検証が機能しにくいことだ。「個人情報が含まれていないか」を誰がどう確認するのか。データを提供する創業者にその能力があるとは限らないし、仲介企業が独立した検証を保証しているわけでもない。AI企業が「購入した」という事実が、そのデータを使う正当性の担保にはならない。
実務への示唆:スタートアップ関係者は何を考えるべきか
まず、創業者・経営者に言えること。
廃業は突然訪れることもある。しかしデータの取り扱いは、創業段階の設計に含めておくべきテーマになりつつある。具体的には、「廃業時に社内データをどう処分するか」を規定するポリシーや、従業員・ユーザーへの通知義務を明確にしておくことだ。廃業後に「売れるデータがある」と気づいてから考え始めるのは遅すぎる。
次に、AI企業やデータ購入者の側。
データを買うことの法的リスクは、売り手だけでなく買い手にも及ぶ。「仲介企業を通じた正規の取引」だからといって、個人情報保護法やGDPRなどの規制から自由になれるわけではない。特に欧州向けのサービスを展開するAI企業であれば、データのプロバナンス(出所とその適法性の証跡)を慎重に確認する必要がある。
さらに、今後の規制論点として注目すべきは3点だ。
- 廃業時のデータ帰属:誰がデータを所有し、誰が売る権限を持つのか。従業員や元ユーザーへの通知・同意義務はどこまで及ぶか。
- AI訓練データの開示義務:EU AI Actは訓練データのある程度の透明性を求めている。廃業データを含む場合、その開示がどう扱われるか。
- 「模擬ワークスペース」の実態:AI企業が求めているのは「実際の業務環境に近いデータ」だ。それが精巧であればあるほど、含まれる個人情報も具体的になる。用途の定義と制約が次の争点になる。
今後、同種のニュースを見るときに使える軸
この種の「データ市場の新しい供給源」という話は、今後も出てくる。病院の廃業、教育機関の合併、メディアの閉鎖——どれも大量のテキストデータを持っている。
そういった記事を見るときに確認すべき点は単純だ。「誰がデータを作ったのか」「誰がデータを売る権限を持っているのか」「元のユーザーや従業員はどんな同意をしていたのか」この3点が答えられていない記事は、表面のビジネスモデルだけを見ていると思っていい。
市場が動いているのは事実だし、シンプルクロージャーのビジネスが成立しているのも現実だ。だからといって、それが「適切に解決された問題」ではない。法的・倫理的な整備は、市場の拡大に明確に遅れている。
廃業スタートアップのSlackログに値段がついた。それ自体は驚くことではない。驚くべきは、その取引の妥当性を判断する制度がまだ存在しない、という点の方だ。
参考元: 廃業企業のメールやSlackがAI訓練に、「葬儀屋」ビジネスが活況(MIT Technology Review Japan)