「AIを使いたい現場」と「ダメと言う会社」のギャップ、Gemini Enterpriseはどう埋めるか
企業のAI活用で、今いちばんきつい場所はどこか。技術的な難しさではない。「現場はAIを使い始めており、IT部門はそれを止めようとしている」という、人と組織の分断だ。
グーグル・クラウド・ジャパンのマーケティング本部 Google Cloud 担当部長・北瀬公彦氏が、2026年6月2日開催の「AI Market ExCon 2026」で語った内容は、まさにこの構造的な対立を正面から扱っている。
「使いたい」と「ダメ」の構造的な対立
まず現状認識から整理したい。
生成AIは「チャットで質問する道具」から「業務を自律的に遂行するエージェント」へと変わりつつある。Google I/O 2026では、24時間365日稼働するエージェント「Gemini Spark」や、検索体験のエージェント化、エージェント型コマースなどが発表された。北瀬氏はこれらに共通するテーマとして「エージェントの自律化」を挙げ、「誰もが必要なときに強力なエージェントを活用できる時代が到来している」と述べた。
問題は、この「誰でも使える」という流れが、企業の中でひとつの亀裂を大きくするという点だ。
現場部門は競争力向上のために迅速にAIを使いたい。使うべき理由も実感している。一方でIT部門は、データ管理・セキュリティ・利用コストの管理を担う立場にある。だが現場が独自にAIを使い始めると、IT部門は「利用状況やデータの流れを十分に把握できない」状態に陥る。
北瀬氏の言葉を借りれば、「情シスにAIを使うなと言われても、現場では使われているのが実情」だ。
スピードと統制が両立しない、その本質
ここで起きているのは、単なるツールの問題ではない。
現場が各自でAIエージェントを作り始めると、管理されていない「野良AIエージェント」が乱立する。ツールやMCP(Model Context Protocol)の増加は、データがどこに流れているかを不透明にする。IT部門が把握できていないまま、社内の機密データがどのAIモデルに送られているか——そういう状態が静かに広がっていく。
これがスピードと統制の両立を難しくしている本質だ。「AIを使うな」という禁止令は現実には機能せず、かといって野放しにすればガバナンスが崩れる。このジレンマは、ツールを1つ導入すれば解決するほど単純ではない。
Gemini Enterpriseが提示する解
Googleが企業向けに提供するGemini製品は、用途ごとに分かれている。一般ユーザー向けの「Geminiアプリ」、ビジネスユーザー向けの「Google Workspace with Gemini」、開発者向けの「Gemini API」、そして企業全体のAIエージェント活用を支援する「Gemini Enterprise」だ。
北瀬氏の説明では、「Google Workspace with GeminiはGeminiが従業員一人一人の生産性を高めるツールだとすれば、Gemini Enterpriseは社内に散在するナレッジを集約・連携し、企業の意思決定を高度化・高速化するエージェント統合プラットフォーム」とのことだ。
その中核が「Gemini Enterprise Agent Platform」で、AIエージェントの開発から運用・管理・最適化までを一元的に支援する。ノーコードからフルコード対応という間口の広さと、アクセス管理・監査ログといったガバナンス機能を同時に持つ設計になっている。
セキュリティ面では、北瀬氏が「認証」「エージェント保護」「可観測性」の3点を挙げた。具体的には、プロンプトインジェクションやbot攻撃からの保護、個人情報(PII)の保護、認証・認可の制御、モニタリング・監査・ログ管理が含まれる。
データ連携についても触れておきたい。Gemini EnterpriseはGoogle Workspaceだけでなく、Microsoft 365、Salesforce、Slackなどのサードパーティツールともアクセス制御付きで連携する。例えばMicrosoft SharePointやSalesforceのデータにアクセスする際は、「既存の権限設定を引き継ぐ」形になっており、社内のデータ権限をそのまま活かせる設計だ。
事例で見る実装の現実
講演では2社の事例が紹介された。
再春館製薬所では、社内用語や組織情報を理解するAI基盤を構築し、企業理念に沿わない企画にAIが注意喚起や代替案を提示する仕組みを整備している。現在では約850人の従業員がAIを日常的に活用し、独自エージェントの開発も進んでいるという。
JA共済の事例は、より業務課題に近い。電話対応時のガイドライン解釈が担当者によって異なるという問題に対し、ガイドラインと過去3年分の照会データを活用したAIエージェントを開発。判断根拠を示しながら回答することで、照会業務の負荷削減を目指している。
どちらの事例にも共通しているのは、「全社的な活用基盤がある上で、現場固有の課題に対してエージェントを構築している」という構造だ。基盤なき個別ツール導入とは明確に異なる。
これは「ツール戦争」ではなく「権限設計の戦争」
ここからは見方の話をする。
今起きていることの本質は、どのAIツールが優れているかという競争ではない。企業の中で「誰が何のデータにアクセスできるか」という権限設計が、AI時代にどう機能するかという問題だ。
従来の権限設計は、人間が直接データベースやファイルにアクセスする前提で作られていた。だがエージェントが人間の代わりに自律的に動き始めると、「エージェントにどこまでのアクセスを許可するか」という新しい層の設計が必要になる。Gemini Enterpriseの「既存の権限設定を引き継ぐ」という仕組みは、この問題への一つの回答だが、それで全てが解決するわけではない。
期待値の調整として正直に言っておきたいのは、「ノーコードで誰でもエージェントを作れる」という部分だ。技術的にそれは可能になってきているが、「作れる」と「正しく作れる」は別の話だ。業務ロジックの誤実装、意図しないデータ参照、セキュリティ設定の見落とし——これらは開発スキルではなく業務設計の問題であり、ノーコードツールがあっても発生する。基盤を整えた後の「使いこなし層」の育成は、別途必要なコストとして見込んでおくべきだ。
もう一点、判断軸として持っておきたいのはベンダーロックインのリスクだ。Gemini Enterpriseのようなエージェント統合プラットフォームを採用すると、エージェントの作成・管理・データ連携の全てがそのプラットフォームに依存する。Google、Microsoft、Salesforceがそれぞれ同種のプラットフォームを展開する中で、自社のエージェント資産をどこまでポータブルに保てるか——次のベンダー評価ではここを問うべきだ。
実務担当者が今週考えるべきこと
IT部門の担当者へ。「使うな」という禁止令は、もう機能しない。北瀬氏が述べた通り、現場では既に使われている。今の仕事は禁止令を強化することではなく、「統制付きで解放する」仕組みを設計することだ。監査ログが取れる環境、アクセス制御が機能する環境を整えた上で、現場が動ける余地を作る——その順番で考えてほしい。
**現場担当者へ。**個人のアカウントで使っているAIツール、社外のサービスに貼り付けている社内テキスト、それらは「今は問題になっていない」だけで、問題がないわけではない。ガバナンス基盤が整ってきた企業では、そのログが遡って問題になる可能性がある。早めに「IT部門が把握している環境」へ移行しておくことを勧める。
**経営層・事業責任者へ。**AI活用の議論が「どのツールを使うか」「コストはいくらか」で止まっているなら、次のフェーズに移る時期だ。問うべきは「どんなデータを、誰が、どこまでAIに使わせるか」という権限とデータ設計の話だ。これは情報システム部門だけで決められる話ではなく、事業側の判断が必要になる。
まとめ
スピードと守りのトレードオフはなくせる、というのがGemini Enterpriseのメッセージだ。技術的にはその通りだと思う。ただし、それは基盤を導入すれば自動的に達成されるものではない。
権限設計の見直し、エージェントの品質管理、ガバナンスルールの策定——これらは人と組織の仕事だ。ツールが「できる」ようにしてくれるのは、あくまでその土台に過ぎない。
今回のニュースを見る軸を一つ提供するとすれば、「このベンダーはエージェント基盤の中で、既存の権限設計をどう継承するか」だ。この点を各社がどう解決しているか比較すると、AI時代のガバナンス設計の輪郭が見えてくる。